まあ、そんな感じで

徒然なるままにヒグラシ

仕事するってこと

どういうことなんだろな、ってことはよく考える。

 

わりと(予定外に)長く会社員をやってしまったわけだけど、まあ今考えると、やっぱりそれなりに給料はよかった。いわゆる「大企業」だったしね。

仕事=給料の額、だと思っていたと思う。

 

まあそれなりに能力も買われてた(と思う)のだけれど、どうも働いている実感はなかった。それよりも、やれ部門間の調整をせいだの、ハードの納期が遅れているから部品の納期を早めろだの、客は1日早めろと言っている。物流をなんとかせいだの、そんな本筋とは関係のないところのメールや調整ごとで日が暮れていたような気がする。

仕事を「やった気になっていた」だけって話で、お金もらえりゃいいやってやつ。

 

小さい会社で働いて、まがりなりにも一度事業全体を動かした経験からすると、そんなことにお金つかってるから、日本の企業は貧しくなるのよ…って実感した。

ものごとというやつは、随意に、バシバシと決まっている。それをスローダウンさせて、引っ張って仕事っぽいことを現場で引き伸ばしている。世の中の仕事の多くは、そんな薄い金属パネルの製造工程のようだ。

この仕事のやり方は、ハッキリ言って時給換算のバイトとそんなに変わらなくて、いること=仕事=お金、みたいな図式なのである。

しかし価値ってやつはそんなもんなんだろうか。ほかにも健康とか喜びとか時間とか、いろんなものがないまぜになっているのが仕事ってやつじゃないのか。

 

個人で頼まれる仕事というやつがある。

たとえば、この5月、知り合いのアパレルの会社(社員全員と仲良し)で卸先の韓国で販売の縄張り争いが起きているから、通訳として間に入って解決せよ、というミッションがあって、交通費と少なくない報酬をもらった。

向こうの女社長とこっちの社長のお話をお伝えして、こういうふうに動いたらいいんじゃないっすかねえって言う、まあわりといいポジションの仕事なんだけど、双方に喜んでもらって、卸先を絞る材料となる視察になったわけで、わりと良い感じであった。

 

このお金は、ふだんもらう額から比べると小さい。

でも、色があるなあ、と思った。

じぶんが働いて、喜んでもらった対価のようなものだ。

 

また、最近になって友人の義姉の社長(翻訳会社)と会って、ドイツ語の翻訳を取りまとめる仕事も始めた。まあ今回がたまたまドイツ語だっただけなんだけど、要はテレビ局からの依頼で、テープをドイツ語→ドイツ語に書き起こす人を探して、ドイツ語→日本語訳して納品っていうものの取りまとめをやっているわけだ。

これなんかも、社長が「なかなかええね、わたしの仕事減るわ、ほくほく」ってなって、頼んだ先のドイツ人も「こんな面白い仕事はなかなかないわ!ありがとう!」てな具合になって、わたくしも少しばかり報酬がもらえてええ感じである。

まあいずれもラッキーでやってきた仕事なんだけど、わりと良い感じで流れてて、ここから何か営業かけたり、人とつながれそうでたいそう面白そうだ。

 

額ではなく、喜んでもらった量

 

これがじぶんの価値として量れるようになってくると、じぶんとじぶんの仕事に満足度が上がっていい感じである。今さらながら、それが仕事かもなあ、って思ったりしているのである。ナマイキながら。

意味のこと

絵を描くときもずいぶん意識的なこともあったけど、最近はもうどうでもよくなって、かっこいい感じになればいいと思って意味をすっぽり捨てるようにしている。

そうはいっても意図は入ってくるのだけれど、なるたけ口をあけた状態であんぐり行くのがいい感じだと思っている。

 

これはつまり文学に対する詩と同じような話で、文学は観念的であるけど、詩は稲垣足穂が言うように、歴史性に対して垂直に立つのである。

詩はずばっと本質を射抜くのにたいして、文学は文字で実体を浮かび上がらせるというじつにまどろっこしい方法をとるのである。

いってみればネガポジの関係で、ネガの文学がポジの実体を照らすとも言えて、ぼくはずいぶんこの裏を知ることで本体を見ようとするアプローチをさんざん取ってきた。なににつけても人の反対をとってきたわけで、太陽は半分だから夜があるんだ、なんて言ったりもしていた。

まあ、そういうのもけっこう好きで、若い時は特に観念的であろうとするのだけれど、あるときからもうホントめんどくさくなってしまった。

なんでそうなったのかはじぶんでもよくわからないのだけれど、とにかくつかれてしまった。

 

もういいじゃないか。絵を描いて、色を重ねるのが楽しいだけだ。

 

でもそう思ったら、ずいぶん楽になったし、方法にもこだわらなくなった。塗っても貼っても、音を出しても、どれも同じことだ。同じレイヤーにいる。

なので、絵を描くことはとても個人的で楽しいことになったのだけれど、意味を持ったらどうなるのか、またコンセプトから入ることも楽しいかもな、と思ったりもしているが、当面はこのままでもよいと思っているのである。

 

絵を描く

とても天気が良かったので、絵を描いた。

天気がいいのに、なんでインドアやねんって感じだけど、まあいいでしょうが。

描きはじめたらずいぶん楽しくなってしまって、ぎょうさん描いた。

しばらく描いてなかったので、やっぱり作って外に出すと、無心になって描く。でもできあがると、ああいいなーとかいまいちだなーとか、自分以外のものがたくさん働いて、ままならない感じがやっぱりいい感じだと思うわけ。

 

昔はけっこううまく書こうとかいう意図も結構あって、スケッチとかの本を買って練習したりもしたんだけれども、最近はもっぱら面倒になってやめてしまった。

それよりも、なんかかっこいいなーとか、ぐっとくるなーという「感じ」を画面に乗せていったほうが、どうもしぶんっぽくもあるし、ええ感じやと思うようになったのです。

だれに見せるでもなく、ただ作りたいから作る、っていうのはじつに動機がわかりやすくてよいし、ずっとそうありたいなーと思う。

 

1/7、8にスウェーデンの友達らと展示をすることになって、なんだか張合いもでてきたので、とにかくたくさん作ろうと思う。

やっぱ実力がないものは、数で勝負じゃ!

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旅の変容

じぶんの旅のスタイルは、ここ数年でずいぶん変わった気がする。

 

かつてバックパッカーだったころは(いまでもバックパックで旅してるから「バックパッカー」だけど)その場で行き会った場所に泊まり、人と会い、気の向いた先に行く、そんな感じだった。

よく言えば風に吹かれて…みたいな感じに聞こえるけど、最近になって、ほんとにそうなのかな…?と思うようになったわけです。

 

ていうかね、気取っていたよね!

 

まあ、20歳そこそこだと、たいがいそんなもんなんでしょうけどね。

旅の目的が、知らないものを知りたい!という好奇心と、知らない土地で金も持たずに解決するジブン、かっけー、もあったと思う。

うすうす気づいていたけど、見ないようにしていたよね。

 

特にデンマークに行って以降は、もう少しゆっくりその場所を楽しむようになったなあ、と思う。

相変わらずバックパックは背負っているけど、からだが大変だったら飛行機乗ればいいし、ホテルだって先に取ればその分の時間を楽しめるしね。

いちばん変わったのは、ぜったいひとりでしか行かなかったのに、誰かを訪ねたり、再訪するようになったことかなー。

 

目的が変わったのかなあ、と思うけどどういうふうに変わったんだろうか。

 

好奇心は相変わらず燃えているのと、

あとは、いままで出会った人たちとなにか一緒にしたい、と思うようになった。

 

たとえばネパールのチベット僧とは、地震の復興支援を考えたり、

ラオスの友達とは古着のプロジェクトをやったり。

個人的には、絵やものをつくることで人々と関わることをやりたいと思っているけど、何ができるか、身の丈に合った方法で、少しずつやって行きたいと思うのであります。

「と」を掘る

じぶんは「と」みたいな人間だと思っている。

 

単体で強烈なタイプではないのだけれど、人の間に立つとわりと際立つタイプだと勝手に定義している。

なにかとなにかをつなぐ、接続詞としての「と」である。

仲人さんとかエージェントとかとも言うのかな。なかなかいい言葉がみつからなくて探しているところなのです。

仏教の言葉で「因縁果」というものがあって、因果を仲介するのが「縁」であるという考え方である。

まあ縁というのは人やものをつなぐもので、そんな場をつくりたいと思っている。

 

山形に暮らそう、という話があって、そこに乗りたいと思っている。

なんとなくいい感じの人たちが、手作りで生活をつくっている感じがして、何がどうなるのかわからないけど、そんな場を作れればいいなー。

山梨の話を聞いて、そこに暮らす人々の話も良かったのだけれど、なんとなく山梨は「レベルが高い」印象がある。

 

東京からほど近くて、東京である程度名前のある作家さんがいる印象である。その中にいれば、じぶんも上がっていけるのかもしれないが、じぶんは弱いものの味方でありたかったり、そんなに上昇な気性でもないので、ほどよい距離感がベストだと思うわけなのです。

そしてなにより、なにかにどっぷりつかることが可能なのは、情報から離れたところだと思うのです。

 

たまたまHubspotのculture codeを読んでいたのだけれど、すごくいいことが書かれていて、なかでも「熟達」について書かれたところがよかった。

 

「熟達」するには深く掘っていけ。人生は短い。

 

とても力強いメッセージだと思うし、これはヨガのティーチャートレーニングで、Patrickが言っていたことでもあるな、と思い出しました。

 

ひととひとをつなぐことを深く掘っていく、そろそろそんなステージに移行するタイミングだよな、と思うのです。

 

blog.hubspot.com

ひとのつながりのこと

人間関係はだいじだというが、まったくその通りだと思う。

 

土日はつくば方面と東京で、それぞれひさしぶりの人にたくさん会った

一堂に会したわけではなく、それぞれ店を構えるひとや、作家さんやらに会いに行ったわけだが、なつかしい人もたくさんで、でもみんなフランクに迎えてくれてたいそうよかった。

みなさん、本当にすごいひとたちばかりだ。

だけど、なかなかスペシャリティのない自分のような人にも、たいそう気軽に話しかけてくれてナイスである。

 

行ったのはこのへんのひとたち。

CAFE & GALLERY ANTIGUA

PEOPLE

Shingoster LIVING cox

House.

他にも作家さんなんかに会ったら、shingoさんとつながってたり、あそこでライブやったよーとか、あのひと元気?とかみんなつながっててとてもおもしろい。

こうやって人と人がつながって交易していくのが、人間関係のありかたなんだよなーと思う。

あとは、じぶん自身はなかなかモノをつくれなかったりするけど、こういう人たちをつないで、新たなものを紹介したりつないだり、外国にいったり、日本のものを伝えり、ワークショップを開催したり、そんなプロデューサー的なことをやっていければ面白いと思っている。

で、なんとなくそれはできそうだし、面白そうだな、と思っている。

そして、とてもステキなひとたちだなーとあらためて感じた。

 

このひとたちとまた新たなひとたちの人間関係が発展して、輪の中で楽しくて愉快なことをやったり作ったりしていければ面白いだろうな、と思ってもいるのである。

わるくない老い方

何の気なしにまたブログを書きはじめたけど、2年前にけっこう書いててたまげた。

こんなに書いてたんだ?

ふーむ、そんなこと考えてたなあということもあるけど、概ねいまとあまり変わらないことを書いている。変わらないことがいいことなのか、そうでないのかはよく分からないですな。

 

この2年間、何をしていたのかな、ということはよく考える。

 

もちろん2歳分確実に年齢を重ねて、もはや35になってしまい、それでもこんなふらふらしていていいのか、と自問したりもする。

 

でも、ま。いいのかなこれで、と思う。

だって自分で選んだんだもんね。

 

先日、姉の結婚パーティ(相手がおフランスなのでパーリーな感じ)に行ったとき、ひさびさにおじさん(父の妹の旦那)のトミーに会った。

けっこう変わった人で、会社ではたらきながら世界中自転車で旅してまわっていた。ずっと漫画家になろうとしていて、年賀状なんかはやたらマンガタッチのものが良く届いた。

なかなか軽いノリで、よくうちの母をナンパ(?)していた。

 

奥さんであるぼくのおばさんは、ぼくが小学生くらいのときに亡くなって、トミーはいとこ2人(女の子)を男手ひとつで育てたわけだ。おもろいおっちゃんだが、すごいひとやったんやなあ、と今になって思ったりもする。

 

トミーに会ったのはもう10年ぶりくらいかもしれないのだけれど、知らん間に坊主になっていて、ガタイもよくてなかなかイケてるおじさんになっていた。こどもたちからはなぜか「校長先生」と呼ばれていて、ずいぶんかわいがって(?)もらっていた。

いまは登山にハマっていて、やっぱりあちこち旅しながら山を登ったり、ラオスの河を上ったりしている画像を見せてもらった。

なかなか楽しそうに生活していて、いい感じだな、と思ったりした。

 

まあ漫画家になりたいような人だから、ずいぶん「しょうもないヤツだ」と言われていたけど、結果的にしょうもないヤツでいたことが悪かったかと言えばそんなことなくて、ずいぶん周りから愛されているナイスなヤツだと思うわけだ。

 

まあ自分もたとえば30年くらいして、「しょうもないけどおもろいおっちゃん」と言われるようになっていれば、悪くないかな、と思ったりもする。

 

この2年もじつに波乱万丈いろいろあったけど、もはやそれはじぶんの「業」みたいなものだ。

またおいおい、トマトにまつわるハチャメチャ談はしていこうと思う。